| はじめに |
坂本龍馬が近代日本の扉を開くことに功績のあった人物であったことは、周知のとおりです。しかし明治の初め、龍馬は倒幕維新に活躍した一部の政治家には有名でしたが、一般民衆の中ではそれほど有名ではなかったようです。
龍馬を一躍有名にしたのは、坂崎紫瀾が『土陽新聞』に連載した「汗血千里の駒」と、この連載を編集し出版したいくつかの刊本でした。そして「汗血千里の駒」は毎回連載された挿絵によって大評判となりました。絵師は、当時新聞挿絵界の寵児であった月岡芳年の高弟、山崎年信を大阪から招き、途中からは弟子の藤原信一も加わって担当しました。人々はこの挿絵とともに「汗血千里の駒」を楽しみ、龍馬に興味をかきたてられたのです。
著者の、坂崎紫瀾(斌)は土佐の民権家ですが、とてもユニークな人物です。それは、かれが政談演説を禁止されたとき、講釈師の鑑札を受け、若手民権家を引き連れて馬鹿林一座を立ち上げたことなどに示されています。
坂崎は、「汗血千里の駒」で、自由で、闊達で、愛すべき龍馬のキャラクターを造形し、その後の小説やドラマに大きな影響を与えました。ヒーロー坂本龍馬の誕生です。その誕生の物語をここでご覧下さい。 |
| 高知市立自由民権記念館 館長 松岡僖一
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| 序幕 井口村刃傷事件 |
物語は、土佐・井口村のはずれで起こった、上士による郷士への刃傷沙汰から始まる。
中平忠次郎(郷士)と従者、酒に酔った山田広衛(上士)と連れとの間で諍いが起こり、山田が中平を切り捨てた。知らせを受けて駆けつけた中平の兄・池田虎之進は絶命した弟を前に慨嘆、近くにいた山田を仇としてその場で討つ。
事件は、郷士・上士間の大抗争へと発展する様相を見せ始めた。最終的には池田と中平の従者の切腹により収束するが、郷士たちにとっては土佐藩における自分たちの差別的待遇に対する積年の不満を再認識する場となった。
切腹の現場に居合わせた池田の親友・龍馬は、その血汐に自分の刀の下緒を浸し、悠然とその場を去る。 |
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刀の下緒を、切腹して果てた池田の血に浸し、
池田の死を無駄にしないと心に誓う龍馬。 |
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| 二 龍馬の青春 |
井口村刃傷事件を導入として描いた後、物語は坂本家の来歴、龍馬幼少時代から少年時代、青年時代のエピソードの紹介へと移る。
江戸の千葉道場での修業時代、土佐出身の郷士たちとの交流、千葉の息女(物語中は「光子」となっているが、実際は「佐那」。)との恋愛、勝海舟との出会いなどが描かれる。 |
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| 長崎時代の龍馬を描いたもの。 |
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お互いの気持ちを打ち明ける光子(佐那)と龍馬。 |
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| 三 薩長同盟 |
勝海舟とともに初めて鹿児島を訪れた龍馬は、勝の紹介で西郷隆盛を知り、小松帯刀と親交を結ぶ。この時の人脈が薩長同盟の推進力となる。
薩長同盟実現に向け、龍馬は薩摩側の使者として長州を訪れ、桂小五郎や高杉晋作らと交渉する。高杉は同盟にもっとも強硬な反対者であったが、龍馬の説得により決着する。 |
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| 旅先で碁を打つ龍馬と勝海舟。 |
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薩長同盟に向けて、桂小五郎と高杉晋作を説得する龍馬(背中)。 |
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| 四 瀬戸屋事件 |
龍馬の京都での常宿は瀬戸屋。実際には寺田屋であるが、坂崎は瀬戸屋と記している。
第二次長州征討を控えて、幕府、諸藩の駆け引きが行われている頃、龍馬の命を狙う勢力の活動も活発化した。龍馬らの瀬戸屋滞留を知った新撰組は手の者100人で押し寄せるが、機転をきかせたお龍が時間を稼ぎ、龍馬はピストルで応戦の末、現場から逃げおおせる。 |
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上:瀬戸屋から逃れた龍馬を案じて、夜中に市中を探し回るお龍。当の龍馬は物陰で居眠り。
左:新撰組に対し、銃で応戦する龍馬たち。 |
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| 五 亀山社中・海援隊 |
龍馬と脱藩者仲間は長崎・亀山で結社をつくり、海運業に乗り出す。後の海援隊である。
海援隊は、第二次長州征討の海戦で大きな戦果をあげた。龍馬の海援隊は日本の海運のなかで次第に存在感を増していった。
大洲藩から海援隊が借り受けていた「いろは丸」が、紀州藩の明光丸と衝突、積み荷もろとも沈没するという事故が起きた。龍馬は大藩に一歩も引かず、ついに多額の賠償金を得た。 |
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| 第二次長州征討で、海援隊は幕府軍を打ち破って長州方の勝利に貢献した。 |
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海援隊の借受船・いろは丸と紀州藩・明光丸が広島県福山沖で衝突。 |
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| 六 大政奉還 |
徳川慶喜は、徳川家の存続よりも国家の安危にかかわる事柄を優先すべきだと考え始め、山内容堂から出された後藤象二郎らの提言を容れて大政奉還へと傾く。
その結果、並いる反対者を押し切り、ついに慶喜が大政奉還を宣言する。巷では民衆が「ええじゃないか」の乱舞に興じていた。
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| 諸藩の重臣に大政奉還を諮る慶喜。演説するのは龍馬。(龍馬がこの会合に出席した史実はない) |
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幕府、朝廷、薩長らの駆け引きをよそに、民衆は仮装して「ええじゃないか」とかけ声をかけながら熱狂的に踊った。 |
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| 七 近江屋 |
慶応3年9月、龍馬は久々に土佐に戻り、家族親類たちと数日間にわたって酒盛りをした。これが最後の帰郷となる。
慶応3年11月15日、龍馬の命を新撰組の近藤勇らがつけ狙う。手薄な警護をついて新撰組一党が龍馬を急襲、同席していた中岡慎太郎もろとも殺害した。
龍馬の死後、土佐藩は藩内佐幕派を抑えて王政復古に協力した。 |
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| 近江屋にて。この時坂本龍馬33歳(手前)、中岡慎太郎30歳。 |
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| 龍馬、最期の帰郷の様子。 |
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| 八 受け継がれる志 |
坂本龍馬の遺志はさまざまな人物によって引き継がれた。
お龍は一時期龍馬の実家に身を寄せた。男性のように袴をつけてピストルを帯にさした姿が高知の人々を驚かせた。
龍馬の甥、坂本南海男(直寛)は立志社の社員として各地を遊説し、人民の啓蒙に熱心であった。龍馬そのひとの血をひく者であることが証明されているだろう。
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| モダンお龍。背景は高知城。 |
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自由民権運動家として活躍する龍馬の甥、南海男。 |
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